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下町で診る
第9回 しわくちゃな福沢諭吉



いつも朝一番に、渡辺さん(仮名)はやってくる。高血圧と腰痛でかかっている。今年85歳。

「いつも早いね」と言うと、「あたしゃ、4時から起きてるからね」と答えが返ってくる。病気がちな夫を抱え、市場での重労働をこなしながら子ども2人を育てきった。90度近くに曲がった背中は、人生の苦労を物語っている。

渡辺さんの自分は2人の息子さん。息子さんも高血圧でうちのクリニックに通ってきている。「どうですか、うちの息子たちは?ちゃんと通ってきてますか?」「大丈夫だよ。2人ともちゃんと来てるよ。検査しても何も問題ないよ」

その言葉を聞くと、渡辺さんはにこっと笑い、待ってましたとばかり、息子たちの自慢話に入る。これが本題。自分の体の具合は、二の次だ。

孝行息子たちは朝早く起きて、渡辺さんの朝食と昼食の準備をして仕事に出かけていく。「いつもあの子たちは、あたしの食事の支度をしてから会社に出かけて行ってくれるんだわ」

深く刻まれた皺の奥の、小さな目が幸せそうに笑っている。「あの子たちはほんとにいい子でね、高校も大学も自分で働きながら出たんだよ。あたしゃ何にもしてやれなかった」「ほんとに偉いねえ」親のすねをかじりきった身としては、身の置き場がない……。

「それなのにボーナスが出ると小遣いをくれるんだよ。あたしゃ使い道がないのにねえ」皺が笑顔で覆われ、くちゃくちゃになる。「いい息子さんたちがいてよかったね」「ほんとあたしゃ幸せだね。貧乏はしたんだけどね、貧乏だけはずっとついて回ったけどね。このさきもきっと貧乏だけど……息子たちが立派になってくれたからね」

診察はこれでおしまい。誰かが言ってたっけ、「幸せとは、どんな些細なことでも幸せだと思える心を持つこと。それ自体が幸せなんだ」と。診察室のドアを開けようとして、渡辺さんは立ち止まった。「そうそう、先生。この前、2階のリハビリ室に行ったら、スリッパを履いてない人がいたよ。これ裸ですまないけどとっといて。スリッパでも買って」

そう言うなり、僕の白衣のポケットにしわくちゃの1万円札を突っ込んでいった。こころの中で僕は手を合わせる。渡辺さんの手のぬくもりは1日中白衣のポケットの中にあった。福沢諭吉の顔も笑顔でしわくちゃだった。

※引用 アイユ9月号 2009年(平成21年)9月15日発行 (C) 財団法人 人権教育啓発推進センター




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